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宣帝(せんてい)は、北朝北周の第4代皇帝。武帝の長男。 == 生涯 == 皇太子ではあったものの周囲からはその資質を疑問視されており、父武帝から厳しい教育を受けた。その内容は杖で激しく殴打されるなど厳しいもので、武帝が崩御した際に杖で打たれた痕を撫でながらその死が遅すぎると嘆いたと史書に残されている。即位後まず着手したのが、帝室・軍部の重鎮で北斉攻略の立役者であった斉王宇文憲の誅殺である。武帝時代の旧臣を粛清し、大規模な宮殿を造営するなど奢侈を極め、父帝が恐れた通り暗君としての施政が開始される。 大成2年(579年)、在位1年足らずで7歳の長男・宇文衍(静帝)に譲位した。自らは天元皇帝と名乗り、天元皇后・天皇后・天右皇后・天左皇后・天中大皇后の五人を立后して酒色に走った。朝政を省みることがなく、その翌年に崩御した(同時に複数の皇后を立てることは五胡の漢趙国(劉趙)の昭武帝の七皇后の例などにも見られ、北族の習慣との関連を考慮する必要もある)。 武帝の宗教廃毀政策(三武一宗の廃仏の第2回目)に関しては、仏教と道教の完全復活には至らなかったが、武帝時代に禁止されていた仏像と天尊像を造らせて自らと共に南面に安置し、儒仏道三教が並列される様を表現した。但し、これは宗教に対しての涵養の結果とは言えず、遊興の一環であったことは明白である。また、長安と洛陽の二京には『毛詩』の孝養を詠った詩にちなんだ陟岵寺を各一寺、復活させた。長安の陟岵寺には、579年4月に菩薩僧120名が選抜されて置かれることとなった。その名の通り菩薩僧は剃髪せず有髪の僧として国家のために法会を行った。なお、洛陽の陟岵寺は後の嵩山少林寺である。 酒色遊興のため政治を天元皇后の父親である楊堅に一任し、楊堅の専制を招いたことが北周の滅亡の要因となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宣帝 (北周)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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